T.貴族の時代
大分裂時代
Q:劉備が蜀を征服した時、どれだけの人数で戦ったのか。またどのような戦略をとったのか。
A:初めて蜀に入った時の兵力は1万弱でした。民衆の心をとらえ、味方につけるというのが基本的な方針でした。
Q:蜀の有名な五虎将軍とは誰誰ですか。
A:蜀に五人のすぐれた武将がいたことはたしかですが、それを五虎将軍と呼んだというのは小説の話です。関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人を指します。
Q:張飛は、長坂坡(ちょうはんは)の戦いの時、たった一人で橋の上に立ち、大量の敵軍を一人も通さなかったというのは本当ですか。
A:本当です。ただし、『三国演義』が百万の大軍というのは誇張で、曹操が実際に率いていたのは五千の騎兵でした。彼が攻撃をためらったのは張飛をおそれたのではなく、伏兵を警戒したためでした。
Q:周瑜と諸葛亮では、どちらの方が軍師としては上か。
A:微妙です。戦略なら諸葛亮、戦術なら周瑜でしょう。
Q:諸葛亮は相当頭がよかったと思うのに、五丈原の戦いではなぜ敵を倒すことができなかったのですか。
A:相手の司馬懿の方が上だった、ということですね。『三国演義』の諸葛亮は非常に美化されていて、実像とはかなり異なります。正史である『三国志』を読む限り、諸葛亮が天才的軍師であるとは思えません。
Q:三国時代、呉の国の孫策の本当の死因は何ですか。
A:暗殺です。彼が滅ぼした豪族の部下に殺されました。26歳の早すぎる死でした。
Q:孫権の軍師は誰か。
A:周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜と代わります。
Q:卑弥呼がたてた邪馬台国の場所はいろいろな説があるようだが、本当はどこにあったのか。
A:基本的に北九州説と近畿説があります。日本史の中西先生によれば、古墳の分布から考えて近畿以外にはあり得ない、とのことでした。
Q:このころの中国の人口はどれくらいか。
A:西晋が三国を統一した時の人口は1616万人でした。
Q:九品中正制度の中の一品にはどんな人がいたのか。
A:孔子のような理想的な人物、あるいは皇帝の一族などが該当しますが、実際に一品にランクされた例はほとんどありません。
Q:竹林の七賢というのは誰誰ですか。
A:王戎(おうじゅう)、阮籍(げんせき)、阮咸(げんかん)、?康(けいこう)、山涛(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)です。
Q:八王というのは誰誰ですか。
A:長沙王乂(がい)・斉王冏(けい)・汝南王亮・楚王?(い)・東海王越・河間王?(ぎょう)・成都王頴(えい)・趙王倫。
Q:范曄が『後漢書』を書くまでにたくさんの人が作ったというが、何人の人が書いたのか。
A:7人です。
Q:東晋は建業(現・南京)を建康に変えたというが、康という字はどこから出てきたのか。
A:西晋最後の皇帝の諱(いみな)を避けるためです。業・康ともにさかんという意味があるため、このように変えたのでしょう。
Q:五胡の侵入というが、どれくらいの人数だったのか。
A:少なくとも900万人以上と考えられています。
Q:少林寺はいつからあるのか。
A:496年、北魏の孝文帝が作りました。
Q:北魏の漢化政策で姓をむりやり変えさせられた人たちは、北魏の分裂後、元の姓にもどしたのか。
A:そのままだったようですね。
Q:北魏の漢化政策に反発して反乱などを起こす人はなかったのか。
A:ありました。この反乱がきっかけで北魏は東西に分裂します。
Q:均田制で男子に土地が与えられたが、女子には与えられなかったのか。
A:北朝では男子の半分の土地が女子に与えられていますが、唐ではなくなりました。
Q:均田制によって国有地の分配を受けた農民が北魏におさめた年貢の量はどれくらいか。また不満を感じて反乱などはなかったのか。
A:帛(きぬ)1匹(9メートル)、粟(穀物)2石(53kg)です。他に強制労働もありました。農民の不満については特に聞きません。
Q:三長制で隣長・里長・党長はそれぞれどのような理由で選ばれたのか。
A:三長制は均田制実施のための補助手段として行われ、各長はその事務を担当しました。村人の中で有力かつまじめな者を任命しました。
Q:三長制をしいた時、党はいくつくらいできたのか。
A:当時の北魏は500万戸ありましたから、それを単純に125で割れば、4万党ということになりますね。
Q:奈良の都を平城京というが、これは北魏の都・平城の名前からとったものなのか。
A:日本史の先生に聞いてみたのですが、関係ないでしょうとのことでした。
Q:南朝では仏教がはやったそうですが、それはなぜですか。
A:乱世に生きる人々に救いを提供したということですね。日本の平安時代末期と同じです。
Q:この時代、何かスポーツのようなものはあったのですか。
A:馬を走らせながら矢を射る騎射、剣術などが盛んでした。魏の文帝・曹丕(そうひ、曹操の子)は剣術の名人として有名でした。また蜀を建国した劉備も二刀流の達人だったといわれています。
隋・唐統一帝国
Q:中国史上(清以前)、最も多くの兵力を使った戦いは何ですか。
A:隋の高句麗遠征の117万人でしょう。
Q:高句麗遠征は百万以上の大軍で行われているから、途中で逃げ出してもわからないのではないかと思うが、どれくらいの兵士が逃げたのか。
A:遼河を越えた段階で人数は30万に減っていますが、その原因は病死です。逃亡にはきびしい罰則があり、逃げるのは難しいでしょう。負け戦になれば話は別ですが・・・。
Q:高句麗遠征は、どうして陸路を使ったのか。海路を使う方が速いと思うのですが・・・。
A:水軍もいました。ただし、大半の部隊は陸路を進んでいます。当時の船の大きさ、航海技術から考えて、海路は難しいと思います。
Q:多くの兵士を使った隋の高句麗遠征は、なぜ失敗したのか。煬帝はいくさが下手だったのか。
A:1)統一後日が浅く、各地で隋に対する抵抗がくすぶっていた。2)大軍すぎて動くのが難しかった。3)兵士のやる気が乏しかった。4)高句麗の作戦が巧妙だった。5)煬帝を支える有能な部下がいなかった。
などがあげられます。
Q:なぜ煬帝は長安が嫌いだったのか。
A:当時政治を支配していたのは、長安を拠点とする関隴(かんろう)集団と呼ばれる豪族たちでした。彼はその集団と仲が悪く、その圧迫から逃れ自由になりたかったのだ、と考えられています。
Q:突厥はなぜ分裂したのか。
A:隋が巧みな分裂工作を行ったためです。
Q:大運河はどれくらいの距離があったのか。
A:約1500キロです。
Q:大運河を使って米や塩を運んでいたというが、どのくらい時間がかかったのですか。
A:揚州から北京まで普通1カ月かかったそうです。長安へも同じくらいではないでしょうか。
Q:煬帝を殺したの部下は誰ですか。その後どうなったのですか。
A:宇文化及という人物です。その後別の反乱軍と戦って敗れ、戦死します。
Q:遣隋使・遣唐使は1回に何人くらい行っていたのか。
A:奈良時代の最盛期は500〜600人に達しています。
Q:科挙で門閥主義から能力主義に変わったのに、門下省などの貴族はどうやって残ったのか。
A:当時官僚になるには二つのコースがありました。一つは科挙に合格する事、もう一つは父親が一定以上の高級官僚の場合、その息子も官僚になれるという特典がありました。貴族たちはこの方法で官僚として残ったのです。唐の時代は、正確には、門閥主義から能力主義への過渡期でした。
Q:科挙の試験は論述形式だったというが、どんな問題が出たのか。
A:唐代では、当日与えられた題に基づいて詩や賦を作りました。賦というのは対句を使い韻を踏む美文です。宋代になると時事問題に関する論文になります。
Q:科挙の受験費用はどれくらいか。
A:答案用紙は受験場で買ったそうですが、受験料のことは記録がありません。無料ではなかったかと思われるのですが・・・。