2012年5月3日木曜日

前川の世界史 東アジア世界の展開


T.貴族の時代

大分裂時代

Q:劉備が蜀を征服した時、どれだけの人数で戦ったのか。またどのような戦略をとったのか。

A:初めて蜀に入った時の兵力は1万弱でした。民衆の心をとらえ、味方につけるというのが基本的な方針でした。

Q:蜀の有名な五虎将軍とは誰誰ですか。

A:蜀に五人のすぐれた武将がいたことはたしかですが、それを五虎将軍と呼んだというのは小説の話です。関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五人を指します。

Q:張飛は、長坂坡(ちょうはんは)の戦いの時、たった一人で橋の上に立ち、大量の敵軍を一人も通さなかったというのは本当ですか。

A:本当です。ただし、『三国演義』が百万の大軍というのは誇張で、曹操が実際に率いていたのは五千の騎兵でした。彼が攻撃をためらったのは張飛をおそれたのではなく、伏兵を警戒したためでした。

Q:周瑜と諸葛亮では、どちらの方が軍師としては上か。

A:微妙です。戦略なら諸葛亮、戦術なら周瑜でしょう。

Q:諸葛亮は相当頭がよかったと思うのに、五丈原の戦いではなぜ敵を倒すことができなかったのですか。

A:相手の司馬懿の方が上だった、ということですね。『三国演義』の諸葛亮は非常に美化されていて、実像とはかなり異なります。正史である『三国志』を読む限り、諸葛亮が天才的軍師であるとは思えません。

Q:三国時代、呉の国の孫策の本当の死因は何ですか。

A:暗殺です。彼が滅ぼした豪族の部下に殺されました。26歳の早すぎる死でした。

Q:孫権の軍師は誰か。

A:周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜と代わります。

Q:卑弥呼がたてた邪馬台国の場所はいろいろな説があるようだが、本当はどこにあったのか。

A:基本的に北九州説と近畿説があります。日本史の中西先生によれば、古墳の分布から考えて近畿以外にはあり得ない、とのことでした。

Q:このころの中国の人口はどれくらいか。

A:西晋が三国を統一した時の人口は1616万人でした。

Q:九品中正制度の中の一品にはどんな人がいたのか。

A:孔子のような理想的な人物、あるいは皇帝の一族などが該当しますが、実際に一品にランクされた例はほとんどありません。

Q:竹林の七賢というのは誰誰ですか。

A:王戎(おうじゅう)、阮籍(げんせき)、阮咸(げんかん)、?康(けいこう)、山涛(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)です。

Q:八王というのは誰誰ですか。

A:長沙王乂(がい)・斉王冏(けい)・汝南王亮・楚王?(い)・東海王越・河間王?(ぎょう)・成都王頴(えい)・趙王倫。

Q:范曄が『後漢書』を書くまでにたくさんの人が作ったというが、何人の人が書いたのか。

A:7人です。

Q:東晋は建業(現・南京)を建康に変えたというが、康という字はどこから出てきたのか。

A:西晋最後の皇帝の諱(いみな)を避けるためです。業・康ともにさかんという意味があるため、このように変えたのでしょう。

Q:五胡の侵入というが、どれくらいの人数だったのか。

A:少なくとも900万人以上と考えられています。

Q:少林寺はいつからあるのか。

A:496年、北魏の孝文帝が作りました。

Q:北魏の漢化政策で姓をむりやり変えさせられた人たちは、北魏の分裂後、元の姓にもどしたのか。

A:そのままだったようですね。

Q:北魏の漢化政策に反発して反乱などを起こす人はなかったのか。

A:ありました。この反乱がきっかけで北魏は東西に分裂します。

Q:均田制で男子に土地が与えられたが、女子には与えられなかったのか。

A:北朝では男子の半分の土地が女子に与えられていますが、唐ではなくなりました。

Q:均田制によって国有地の分配を受けた農民が北魏におさめた年貢の量はどれくらいか。また不満を感じて反乱などはなかったのか。

A:帛(きぬ)1匹(9メートル)、粟(穀物)2石(53kg)です。他に強制労働もありました。農民の不満については特に聞きません。

Q:三長制で隣長・里長・党長はそれぞれどのような理由で選ばれたのか。

A:三長制は均田制実施のための補助手段として行われ、各長はその事務を担当しました。村人の中で有力かつまじめな者を任命しました。

Q:三長制をしいた時、党はいくつくらいできたのか。

A:当時の北魏は500万戸ありましたから、それを単純に125で割れば、4万党ということになりますね。

Q:奈良の都を平城京というが、これは北魏の都・平城の名前からとったものなのか。

A:日本史の先生に聞いてみたのですが、関係ないでしょうとのことでした。

Q:南朝では仏教がはやったそうですが、それはなぜですか。

A:乱世に生きる人々に救いを提供したということですね。日本の平安時代末期と同じです。

Q:この時代、何かスポーツのようなものはあったのですか。

A:馬を走らせながら矢を射る騎射、剣術などが盛んでした。魏の文帝・曹丕(そうひ、曹操の子)は剣術の名人として有名でした。また蜀を建国した劉備も二刀流の達人だったといわれています。

隋・唐統一帝国

Q:中国史上(清以前)、最も多くの兵力を使った戦いは何ですか。

A:隋の高句麗遠征の117万人でしょう。

Q:高句麗遠征は百万以上の大軍で行われているから、途中で逃げ出してもわからないのではないかと思うが、どれくらいの兵士が逃げたのか。

A:遼河を越えた段階で人数は30万に減っていますが、その原因は病死です。逃亡にはきびしい罰則があり、逃げるのは難しいでしょう。負け戦になれば話は別ですが・・・。

Q:高句麗遠征は、どうして陸路を使ったのか。海路を使う方が速いと思うのですが・・・。

A:水軍もいました。ただし、大半の部隊は陸路を進んでいます。当時の船の大きさ、航海技術から考えて、海路は難しいと思います。

Q:多くの兵士を使った隋の高句麗遠征は、なぜ失敗したのか。煬帝はいくさが下手だったのか。

A:1)統一後日が浅く、各地で隋に対する抵抗がくすぶっていた。2)大軍すぎて動くのが難しかった。3)兵士のやる気が乏しかった。4)高句麗の作戦が巧妙だった。5)煬帝を支える有能な部下がいなかった。

などがあげられます。

Q:なぜ煬帝は長安が嫌いだったのか。

A:当時政治を支配していたのは、長安を拠点とする関隴(かんろう)集団と呼ばれる豪族たちでした。彼はその集団と仲が悪く、その圧迫から逃れ自由になりたかったのだ、と考えられています。

Q:突厥はなぜ分裂したのか。

A:隋が巧みな分裂工作を行ったためです。

Q:大運河はどれくらいの距離があったのか。

A:約1500キロです。

Q:大運河を使って米や塩を運んでいたというが、どのくらい時間がかかったのですか。

A:揚州から北京まで普通1カ月かかったそうです。長安へも同じくらいではないでしょうか。

Q:煬帝を殺したの部下は誰ですか。その後どうなったのですか。

A:宇文化及という人物です。その後別の反乱軍と戦って敗れ、戦死します。

Q:遣隋使・遣唐使は1回に何人くらい行っていたのか。

A:奈良時代の最盛期は500〜600人に達しています。

Q:科挙で門閥主義から能力主義に変わったのに、門下省などの貴族はどうやって残ったのか。

A:当時官僚になるには二つのコースがありました。一つは科挙に合格する事、もう一つは父親が一定以上の高級官僚の場合、その息子も官僚になれるという特典がありました。貴族たちはこの方法で官僚として残ったのです。唐の時代は、正確には、門閥主義から能力主義への過渡期でした。

Q:科挙の試験は論述形式だったというが、どんな問題が出たのか。

A:唐代では、当日与えられた題に基づいて詩や賦を作りました。賦というのは対句を使い韻を踏む美文です。宋代になると時事問題に関する論文になります。

Q:科挙の受験費用はどれくらいか。

A:答案用紙は受験場で買ったそうですが、受験料のことは記録がありません。無料ではなかったかと思われるのですが・・・。


ウェルターデュ痛み

Q:科挙には、進士科・秀才科・明経科などがあるが、それぞれどういうものか。

A:進士・・・官僚コース。

   明経・・・学者コース。

   秀才・・・最も難しいコースで、政治問題に関する論文を書きます。地方から推薦された人物が受験しましたが、不合格の場合は推薦者が責任を追及されたため、しだいにすたれました。

Q:唐の時代の中国の全人口はどれくらいか。

A:玄宗の天宝十三載(754年)が人口のピークで、5291万9309人です。ただしこの余分に、

税金のかからない人口が4470万0988人いました。

Q:唐の時代の役人の給料はどれくらいか。

A:玄宗時代の月給は次の通りです。

一品・・・2万4000貫(1貫は銅銭1000枚)

二品・・・1万7000貫

三品・・・ 〃 〃  貫

四品・・・1万1567貫

五品・・・  9200貫

六品・・・ 5300貫

七品・・・ 4050貫

八品・・・ 2550貫

九品・・・ 1900貫

Q:唐代の中央官制に鴻臚(こうろ)というのがあったが、何をするところか。

A:外国へ使者として派遣される、あるいは外国の使者を接待する仕事で、今の外務省に相当します。

Q:唐が支配していた異民族にはどんな民族がいたのか。

A:突厥、吐蕃(とばん)、ウィグル、契丹、室韋(しつい)、抹鞨(まっかつ)などです。

Q:均田制で永業田20畝というが、1畝の広さはどれくらいか。

A:唐代は約5.8アール、つまり580平方メートルです。

Q:庸をやらされていた人数はどれくらいか。

A:玄宗時代の750年頃、庸に動員される丁男(21〜59歳)は約820万人でした。

Q:この時代、租・庸・調の他に雑徭というのがあったらしいが、どんなものか。

A:地方の役所のための強制労働です。つまり庸は国税、雑徭は地方税というわけです。

Q:唐の時代は海上貿易も栄え、玄宗の時代には市舶司も置かれたとあるが、どことどのような物を貿易していたのか。

A:東南アジア・インド・アラビア方面との貿易です。

   中国からの輸出・・・絹・陶磁器など。

中国への輸入・・・香辛料・サンゴ・タイマイなど。

Q:唐を援助したウィグルは、何か代償をもらえたのか。

A:皇帝が金銀・子女を与えると約束してしまったため、長安の金銀・財宝・女性を略奪してまわりました。

Q:ウィグルは安史の乱で唐を助けた後、どうなったのか。

A:しだいに衰え、848年、完全に滅亡します。

Q:三武一宗の法難とは何のことか。

A:中国史上、仏教に対する弾圧が4回行われました。その時の皇帝の名前を取ってこのように表現します。

  1)北魏の太武帝(446年)

2)北周の武帝(574、577年)

  3)唐の武宗(845年)

4)後周の世宗(955年)

Q:玄奘はインドから何冊のお経を持って帰ったのですか。

A:帰国後、彼が翻訳したのは7000部、1338巻ということですが・・・。

Q:製紙法が日本に伝わったのはいつごろですか。

A:6世紀の初め、聖徳太子の時代でした。

Q:唐の時代、州・県はいくつあったのですか。

A:320州、1385県です。

Q:両税法では税を銭で納めたそうですが、当時の貨幣はどのような物ですか。

A:銅銭です。開通元宝だったと思われます。

Q:両税法はなぜ夏・秋に税金を集めたのか。

A:穀物(麦・米)の収穫期に合わせたのです。

Q:両税法の頃、農民はどれくらい稼いでいたのか。

A:唐の大暦4年(西暦769年)に、全国の戸を9等級に分け、税金を定めています。

上上・・・4000文 中上・・・2500文  下上・・・1000文

上中・・・3500文 中中・・・2000文  下中・・・ 700文

上下・・・3000文 中下・・・1500文 下下・・・ 500文

当時の平均税負担率は28%と推測されていますから、中の中の戸の場合、年収7145文となります。

Q:朱全忠は息子に殺されたそうですが、どういう理由からですか。

A:朱全忠は晩年非常に乱れ、気に食わない部下をかたっぱしから殺したり、息子の妻を奪ったりしました。朱全忠が重病にかかり、とても跡を継げそうにないと思った三男が親を殺して即位しました。

Q:唐の時代、ゾロアスター教は示天教(けんきょう)、ネストリウス派キリスト教は景教と呼ばれたそうだが、どうしてそのような名前になったのか。

A:示天教・・・示天はゾロアスター教の神を意味します。これ以外に意味がない特殊な文字です。もとは単に「天」といっていたのですが、後に示(しめすへん)がつきました。

 景教・・・「大秦景教流行中国碑」に《真常之道、妙而難名、功用昭彰、強称景教》という一節があります。ここから考えて「景」は光明とか光り輝くという意味があるといわれています。

Q:この頃はやったものにはどんなものがあるか。

A:食べ物は豆腐とナレ寿司、それにスイカが入ってきたようです。化粧では額に紅をさすのがはやったようです。

Q:唐の時代の人々はどのような食生活を送っていたのか。

A:メニューが残っている例でいうと、次の通りです。

小麦製品・・・17例 羊・・・・・・ 6例

飯・粥・・・・ 2例 魚・鮓・・・・ 5例

乳製品・・・・ 5例

主食は粟・黍に加え、米もかなり普及しました。また小麦を粉にひいて加工し、食べる習慣が庶民の間にも広まりました。またペルシアからほうれん草が伝わりました。さらにお茶が普及し、固形の砂糖も登場しました。なお、当時は1日2食でした。

Q:唐の時代の人々の寿命はどれくらいか。

A:唐代の記録をざっと調べてみたのですが、平均50歳くらいではないでしょうか。ぼくの見た範囲では19歳から86歳まででした。

Q:水によってお茶の味が違うというが、一番おいしいのはどこの水ですか。

A:杭州の虎足包泉(こほうせん)といわれています。

追伸・・水のランクは次のようになっています。

天下第一泉・・・鎮江にあります。

天下第二泉・・・無錫にあります。

天下第三泉・・・杭州の虎足包泉(こほうせん)です。

 ぼくはそのすべてに行きました。杭州の虎足包泉(こほうせん)の水でいれた龍井(ロンジン)茶が最高だったと思います(無錫の第二泉の水は現在飲めないそうです)。

Q:唐とトウモロコシは何か関係があるのですか。

A:トウモロコシは、本来、新大陸の原産です。日本へは戦国末期の天正時代(1573〜1592)に南蛮船が持ってきました。トウは外国から来た品物を表す言葉で、唐王朝とは関係ありません。

Q:遣唐使が廃止されて、唐は何もいわなかったのか。

A:むしろ負担が軽くなって、喜んでいたかも知れません。

 

U.中国社会の変化

1.五代

Q:遼はどうして燕雲十六州を獲得したのですか。

A:五代の三番目の王朝・後晋が後唐を滅ぼす時、遼に応援を頼みました。そのお礼に燕雲十六州を贈ったのです。

Q:五代随一の名君は誰ですか。逆に暗君は誰ですか。

A:名君は後周の世宗でしょう。暗君は晩年の朱全忠でしょうか。

Q:産業の発達というが、この頃の特産品にはどんな物があったのか。

A:茶・絹・陶磁器・塩などがあります。

2.北宋

Q:北宋の親衛軍は何人いたのか。

A:太祖の時19万人、太宗の時35万人でした。

Q:科挙の最年少合格者の年齢はどれくらいか。

A:20代前半ではないでしょうか。王安石は22歳でした。

Q:科挙の殿試というのは、皇帝が直接試問するということですが、どういう質問をしたのですか。

A:直接試問というのは建て前で、実際には部下の学者が皇帝の意を受けて問題を作っていました。質問内容は時代により異なります。テーマを与えて賦という一種の詩を作ることもあれば、時事問題に関する論文を書かせることもありました。

Q:科挙は何点満点なのか。

A:一つの試験については100点満点です。

Q:科挙で途中までは合格したが、そこであきらめる場合、どのような就職があったのか。


hawauwii滝、コロニー、テキサス州

A:郷試に合格し、挙人の資格を得ていた場合、科挙の受験生を教える学校の教師になれます。それ以前に落ちた場合は、せいぜい自分の生まれ故郷で塾を開くくらいでしょうか。魯迅の短編小説「孔乙己」は科挙の失敗者の悲惨な生活ぶりを描いたものです。

Q:宋に攻め込んだ時の遼の皇帝は誰ですか。

A:聖宗といいます。

Q:王安石の新法は廃止されたというが、全部の法がなくなったのか。

A:新法の中で王安石がもっとも自信を持っていたのは募役法でした。旧法党の人々の中にもこれはよいという声があったのですが、新法はすべて廃止せよとの圧力に負け、廃止されました。それを聞いた王安石は大変なショックを受けたそうです。

Q:徽宗の書いた詞を紹介してください。

A:詞ではありませんが、こんな七言絶句を見つけました。

    苑西の廊畔に碧溝は長く

    修竹は森森として緑彩涼し

    戯れに水毬を擲(な)げて遠近を競えば

    流星一点波光に輝く

   なかなかうまい詩ですが、気だるい物憂さを感じさせますね。

Q:『水滸伝』に登場する宋江は、史実ではどのような人物で、どのような最期を迎えたのか。

A:北宋の宣和元年から三年(西暦1119〜1121年)にかけて、36人の仲間で山東から淮南を荒し回った反乱の首領です。その後政府軍に捕らえられた、ということしかわかりません。これとは別に北宋軍の大将にも宋江という人物がいて、農民反乱の鎮圧に活躍しています。『水滸伝』の宋江が、北宋に降伏した後、その武将として外敵と戦っているのは、二人の宋江を一つにまとめたためと考えられています。

Q:契丹文字はいつ、誰が作ったんですか。

A:遼の神冊五年(920年)、太祖耶律阿保機が大字を作り、その子・耶律迭刺が小字を作りました。

Q:西夏を作ったタングート族にはどんな特徴があったのですか。

A:チベット系の民族です。最初は弱かったのですが、黄巣の乱の時、唐王朝を助けて節度使に任命され、東西交通路を支配して繁栄しました。元の時代も経済官僚として活躍しましたが、その後消滅しています。

Q:金が遼から独立した時の遼の皇帝は誰か。

A:天祚帝という人です。

Q:陸稲と水稲はどう違うのか。

A:陸稲は畑で栽培される稲です。水稲に比べると、暖かい地方でなければできないそうです。陸稲、水稲とも野生種を改良した物です。起源的には陸稲の方が古いそうです。

Q:産業が発達し、各地に特産物が生まれたということですが、どんな物がありましたか。

A:蘇州付近の絹織物、景徳鎮の陶磁器、江南地方のお茶などがあげられます。

Q:宋の時代の白いお茶は何という名前だったのか。

A:白茶といいます。

Q:宋代の大発明に火薬があるが、どのようにして作られたのか。

A:イオウ、硝石、木炭を調合して作りました。現在のものはニトログリセリンなど各種の化学物質を配合しています。

Q:中国の三大発明が日本に伝わったのはいつごろか。

A:火薬・・・・鉄砲伝来とともに。

羅針盤・・・安土桃山時代。

印刷術・・・1590年に朝鮮からとヨーロッパからと同時に伝わりました。

3.蒙古帝国

Q:クリルタイというのは何人くらいの集会だったのか。

A:部族全員ではなく、代表者が集まったようです。人数についての記録はわかりません。

Q:モンゴル帝国全盛期の兵力はどれくらいか。

A:チンギス汗の晩年で約13万人、フビライが南宋を滅ぼした時が20万人でした。

Q:チンギス汗が大西征を行った時の軍隊はどのくらいだったのですか。

A:兵士は15万ですが、それに馬の世話係や輸送人員、家族も加わるため、総数は60万〜70万と考えられています。

Q:チンギス汗の死後、三男のオゴタイが跡を嗣いだそうですが、長男・次男はどんな人ですか。

A:長男はジュチです。ロシアにとどまりました。その後、彼の領土がキプチャク汗国となります。次男はチャガタイです。チャガタイ汗国を作りました。

Q:四汗国を作ったのは、それぞれどういう人ですか。

A:オゴタイ汗国・・・オゴタイの子孫。

チャガタイ汗国・・・チンギス汗の次男チャガタイの子孫。

キプチャク汗国・・・チンギス汗の長男ジュチの子孫。

イル汗国・・・チンギス汗の孫フラグの子孫。

Q:四汗国でオゴタイ、チャガタイは人の名前、ではキプチャクとイルは何なのですか。

A:キプチャクはキブチャク草原に作られたため、イル汗はトルコ語で「国の王」という意味です。なお、モンゴル史の専門家・杉山正明氏は、四汗国をそれぞれオゴタイ・ウルス、チャガタイ・ウルス、ジョチ(ジュチ)・ウルス、フレグ(フラグ)・ウルスと呼んでいます。

Q:チンギス汗の頃の主食は何ですか。

A:バター、チーズなどの乳製品と羊の肉です。現在のモンゴルも同じです。

Q:ハイドゥの乱(1266〜1303)はずいぶん長く続いているが、ハイドゥ一人でやったのか。

A:この背景にはチンギス汗の三男であるオゴタイの一族と四男であるトゥルイ一族の汗位継承争いがあります。オゴタイの跡を嗣いだ定宗グユクの死後、汗位はトゥルイの長男・憲宗モンケに移ります。モンケの死後、トゥルイの四男・アリクブカが正規の手続きを経て汗となったのに対し、次男・フビライは自分の身内だけでクリルタイを開き、汗を名乗ります。そこで兄弟同士の戦いが始まりました。筋からいえば本来フビライの乱と呼ばれるべきところ、フビライが勝ってしまったので、アリクブカの乱と呼ばれます。この時、グユクの弟・ハイドゥはアリクブカに味方しました。両者を戦わせ、あわよくば共倒れにして、オゴタイ一族に汗位を取り返すためだったと推測されます。その後アリクブカが降伏すると� �ハイドゥは反フビライ勢力の中心人物として兵を挙げます。彼が1301年に死んだ後は、その子がさらに戦いを続けたのですが、1303年、ついに休戦協定が結ばれ、長い戦いに幕がおりました。フビライはすでに亡く、その子・成宗の時代のことでした。

Q:南宋と元の最後の戦いの時、双方の兵力はどれくらいか。

A:首都・臨安に対する最後の攻撃の時は、元20万、南宋10万でした。

Q:日本遠征の失敗で、元はどれくらいの被害を受けたのか。

A:1274年の遠征軍が3万数千人、1281年の遠征軍が14万人でした。そのうち死者は1281年が10万人を越えています。

Q:元寇はどんな武器を持って日本を攻撃したのか。

A:弓矢、槍、剣、それに火薬を用いた新しい武器がありました。当時の日本はこれを「てつはう」と呼びました。鉄砲の始まりです。

Q:元はどのような言葉、文字を使ったのか。

A:言葉はモンゴル語、文字はパスパ文字というのが発明されました。

Q:ラマ教とはどんな宗教か。

A:チベットにおける仏教をいいます。ラマとは師を意味するチベット語です。チベットでは、仏・法僧に帰依する前に、まずラマに帰依するので、

この名があります。

Q:色目人は様々な民族という意味だそうだが、どれくらいの民族がいたのか。

A:31民族という説があります。

Q:モンゴルではどんな商工業が発達したのですか。

A:商業・・・東西貿易が栄えました。

工業・・・陶磁器・絹織物が中心です。

Q:交鈔を作ったのは誰ですか。

A:チンギス汗の時にできたということしかわかりません。交鈔を唯一の通貨と定めたのはフビライでした。

Q:駅伝制で、どのくらいごとに駅がおかれていたのか。

A:一番間隔の短いところで30里(約12キロ)でした。

Q:民族差別政策で、民族の枠を越えた結婚は許されたのか。

A:それぞれ別の戸籍を作っていたようですから、結婚は許されなかったと見るべきでしょう。

Q:郭守敬の作った「授時暦」というのは何ですか。

A:イスラム科学の成果を取り入れた太陰暦で、1年を365,2425日と計算しました。これはヨーロッパのグレゴリウス暦と同じです。これを手本に日本で作られたのが貞享暦です。

Q:元や明の頃のごちそうは何ですか。

A:元の最大のごちそうは馬だったそうです(蒙古人にとっては)。明ではエビ、カニ、フカヒレ、白魚、それに 鴨つまり北京ダックも登場します。

Q:中国とモンゴルは今は仲がいいのですか。

A:特に対立は聞きません。現在モンゴルは外モンゴルと内モンゴルに分かれています。北にある外モンゴルは独立してモンゴル国となり、南にある内モンゴルは中国領で、民族自治区となっています。


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V.伝統中国の完成

1.明

Q:紅巾の乱は、どうして赤巾ではないのですか。

A:赤衣には罪人の着る服という意味があったので、それを避けたのではないでしょうか。

Q:白蓮教というのはどんな宗教ですか。

A:弥勒菩薩が釈迦の死後56億7000万年目に出現し、世直しを行うというものです。

Q:白蓮教とマニ教の違いは何ですか。

A:白蓮教は、もともと念仏により阿弥陀浄土に行くことを求めるものでしたが、それに弥勒仏が現れ世直しを起こすという信仰が結びつきました。

マニ教は、この世は光明の神ズルヴァーンと暗黒の王アフラメーンとの対立だ、というものです。

Q:この時代、どうしてイナゴが大発生したのか。

A:気候・エサ・天敵など自然のバランスが崩れたためです。種類によっては余りに数が増えると、羽根が長くなって長距離を飛ぶことが可能になるという変化が起こるそうです。

Q:紅巾の乱の一方の親分が郭子興であるらしいが、他にはどんな人物がいたのか。

A:徐寿輝・陳友諒(りょう)・明玉珍・張士誠・方国珍などです。

Q:朱元璋は何歳まで生きたのですか。

A:71歳です。

Q:朱元璋は結局何人殺したのか。

A:10万人を下ることはないだろう、とのことです。

Q:「魚鱗図冊」という土地台帳ができたということだが、今まではなかったのですか。

A:遅くとも秦以降はあったと思われます。北宋以降の土地台帳はすべて「魚鱗図冊」と呼ばれていたそうです。

Q:明の時代の人口は、「魚鱗図冊」などによって正確にわかっていたのですか。

A:はい。1381年に行われた明の最初の調査では、5987万3305人となっています。

Q:豊臣秀吉の検地や刀狩りは、明の土地測量や衛所制をまねたものなのか。

A:日本史の先生に聞いてみたのですが、特に影響があったとは考えられないそうです。

Q:衛所制で百戸所というのに、なぜ112戸もあるのか。

A:小隊長格の家10戸、全体を指揮する家2戸を含みます。

Q:衛所制ではどのくらい兵士がいたのか。

A:全国に493衛が置かれていましたから、276万人ということになります。

Q:衛所制で、兵士はどのくらいの土地をもらったのか。

A:一人あたり50畝(約29アール)でした。

Q:万里の長城の西の端はどうなっているのか。

A:嘉峪関(かよくかん)という砦になっています。その西は砂漠で、そこから攻め込むのは難しいと考えられていました。

Q:明は宦官を登用したというが、人数はどれくらいいたのか。

A:明末には10万人に達しました。

Q:宦官を希望してなれなかった人もいるのですか。

A:明の末期、宦官の欠員3000人を募集したところ、2万人余りも希望者が殺到しました。結局4500人を採用しましたから、残りは不合格になった訳です。不合格者が仲間を組んで盗賊になった例もあります。

Q:宦官になった人は給料はもらえますか。それはどれくらいの金額ですか。

A:トップクラスは国家の官僚として給料をもらいます。明の時代はわかりませんが、唐の玄宗の時代、月給は最高1万1567貫、最低1900貫です。1貫は銅銭1000枚ですが、今の価格でいくらになるかはわかりません。ただしこれはごく一部で、大多数の宦官はわずかな給料しかなく、もっぱらワイロで生活していたと推測されます。

Q:明の作った万里の長城は、完成するのに何年かかったのですか。

A:1402年から約200年かかったそうです。

Q:鄭和の南海遠征によって貿易が発達したというが、初めて行った国で言葉が通じたのか。

A:通訳を同行しています。宋以来中国には多数のアラビア人が定住しており、通訳には事欠かなかったと思われます。また彼が司令官に選ばれたのは、イスラム教徒であったからだと考えられています。

Q:なぜイスラム教徒の鄭和に南海遠征という大役をまかせたのか。

A:遠征先にイスラム教国が多かったので、選ばれました。また唐以来、中国には多くのイスラム教徒が移住しており、鄭和はその子孫でした。

Q:鄭和の南海遠征の時、そんなに大きな船を作るのにどれくらいかかったのか。

A:日数まではわかりません。今の南京付近に造船所があり、年間200隻の船が作られていました。

Q:日明貿易ではどのような物を取り引きしていたのか。

A:中国から日本・・・銅、木綿、絹織物、陶磁器など。

日本から中国・・・銀 でした。

Q:日明貿易ではどちらの通貨が使われていたのですか。その場合、交換比率はどうなっていたのですか。

A:朝貢貿易と呼ばれ、日本が差し出した貢ぎ物に対し、明がほうびの銅銭を与えるという形式で行われました。当然、日本の方が有利だったでしょう。

Q:日明貿易はどうして中止されたのですか。

A:寧波で、細川氏と結んだ堺商人と大内氏と結んだ博多商人が衝突し、たがいに殺し合うという事件が起きたためです。

Q:張居正の改革とは、具体的にどのような物だったのか。

A:1)行政改革を行い、経費を切り詰める。

2)大規模な検地と人口調査を行い、地主の横暴を抑え、農民の負担を軽減しようとした。

などです。

Q:織傭の変の指導者は誰か。

A:葛成という織工でした。

Q:張献忠という人は多くの人を殺しているが、自分自身はどのようにして死んだのか。

A:戦死でした。

Q:豊臣秀吉の朝鮮侵略に対し、明は援軍を送ったというが、人数はどれくらいか。

A:4万人です。

Q:イエズス会は何人くらいで構成されていたのですか。

A:1750年頃には2万2116人の会員がいました。

Q:イエズス会の宣教師たちは何年くらい中国に住んでいたのか。

A:マテオ・リッチの場合、1559年から1610年までです。58歳で北京で死んでいます。

Q:外国人に中国名をつけるといっていたが、誰がどのようにしてつけるのか。

A:イエズス会宣教師の場合、中国政府の役人がつけたと推測されます。本名に近い音の文字を選んでつけています。

Q:明ができた頃の世界の人口はどれくらいか。

A:コロンブスが新大陸に到達した1492年の人口が約5億と推測されています。

2.清

Q:女真族の「女」にはどういう意味があるのか。

A:女真はジュルチンに漢字を当てたもので、女にも真にも特に意味はありません。

Q:満州民族は今もまだいるんですか。

A:はい。2002年現在、982万人いるそうです。

Q:サルホの戦いはすぐ終わったのか。

A:一日で終わっています。明側が清の一部隊を主力軍とカン違いして攻撃したところを反撃し、快勝しました。

Q:八旗制で、ニル、ジャランというのはどういう意味か。

A:ニルは矢という意味です。ジャランはわかりません。

Q:太宗ホンタイジは、どうして皇帝になれたのですか。

A:太祖ヌルハチが跡継ぎを指名せぬまま死んだので、部下が相談して彼を推薦しました。もっとも勇敢で武勇にすぐれていたから、とのことです。

Q:三藩は勢力を強大化させ、軍事的にも政治的にも危険となった、とありますが、どのようにして勢力を強大化させたのですか。

A:独自の軍隊を持つ事を認められ、しかもその給料は国が負担するなど、様々の特典があったためです。

Q:鄭成功はなぜ若くして死んでしまったのですか。

A:急死した、としか書いてありません。

Q:雍正帝はどういう理由で軍機処を設置したのか。

A:内閣大学士の力を抑え、皇帝権を強化するためです。約4人の軍機大臣と文書類を処理する事務局で構成されています。

Q:白蓮教徒の乱の原因は何か。

A:大土地所有がしだいに進行し、農民の生活が苦しくなっていたためです。

Q:天理教徒の乱を起こした天理教というのは、どんな宗教ですか。

A:白蓮教の一派ということしかわかりません。


Q:広東十三行では、どんな商人が外国貿易を支配していたのですか。

A:40〜50あった貿易商の中から有力な者を選び、10行前後で運営されていました。メンバーはひんぱんに入れ替わっていますから、有力な商人がその都度権利を買い取ったと推測されます。

Q:『四庫全書』を作るのにどれくらいの時間がかかったのか。

A:約10年です。表紙の色も経が黄色、史が赤、子が青、集が灰色となっていました。

Q:陶磁器の赤色はどのようにして出せるようになったのですか。

A:美術の山元先生に聞きました。紅柄(べにがら)を主体に唐土(とうのつち)、硅石(けいせき)をまぜてよく擂(す)ると、赤色を出す釉薬(うわぐすり)ができるそうです。

Q:明・清時代の宮殿である紫禁城にはどれくらいの部屋数があるんですか。

A:作られた当時の建物の数は786、部屋数は9999だったそうです。

B雑学

Q:漢字の音読みと中国での漢字の読み方には違いがあるようですが、なぜ違うのですか。

A:音読みは本来中国の読み方です。その後中国での読み方が変化したのに対し、日本には古い発音がそのまま残ったのです。

Q:中国拳法はいつからあるんですか。

A:唐末から宋にかけて、少林寺の僧兵たちの護身術として発達しました。

Q:古代中国の王の墓と日本の古墳は何か関係があるのか。

A:日本史の先生に聞きました。日本の古墳は朝鮮半島とは関係があるが、中国とは無関係だそうです。秦以前の王の墓は上に盛り土がないのも大きな違いです。

Q:中国の町でいちばん多く首都に選ばれたのはどこですか。

A:分裂王朝も含めるなら、南京が10回で最高です。それに続くのは長安(現・西安)の9回です。ちなみに内訳は、

   南京・・・三国の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳、十国の南唐、明、太平天国、中華民国。

   長安・・・西周、前漢、五胡十六国の前趙、前秦、後秦、北朝の西魏、北周、隋、唐。

統一王朝に限るなら、北京で5回です。内訳・・・元、明、清、中華民国、中華人民共和国。

Q:中国の宗教では、絶対神的な存在がないような気がしますが、これは五行相克の思想と何か関係がありますか。

A:民族性だ、としかいいようがありませんね。

Q:漢字には、なぜいろいろな書体があるのですか。

A:書道の塩山先生に聞きました。篆書・隷書・楷書は、従来、年代による変化と考えられていました

が、地域差ではないか、とのことでした。また、人が止まっている姿・歩いている姿・走っている姿に対応したものが、正書・行書・草書だということです。

Q:隋や唐といった国の名前は、誰が考えるのか。

A:王朝の建国者およびその部下が考えます。原則として建国者の出身地、あるいは皇帝になる前の領地の古代の名称を用います。

Q:中国の拳法で一番古いものは何か。

A:『三国志』にも登場する後漢末の医師・華佗(かだ)が、健康法として何種類かの拳法を考案しています。

Q:昔の中国の国名は、なぜ漢字一字なのですか。

A:中国の人名、地名は一文字が基本です。王朝名は正確には大の字がつき、大元、大明、大清といいます。

Q:古代中国で、広い国土のはしからはしまで情報を届けるのにはずいぶん時間がかかったと思うのですが・・・。

A:そのために駅伝制度などが設けられていました。唐の玄宗の時代、楊貴妃に茘枝という果物を届けるための早馬は、1日に700から800里(約420キロ)走っています。

Q:中国の国旗の黄色い部分は何を表しているのか。

A:星です。地が赤いので五星紅旗といいます。大きな星は中国共産党、小さな四つの星は、労働者・農民・知識人・愛国的資本家を表します。

Q:中国には国宝級の建物はいくつくらいあるのか。

A:世界遺産に登録されているのは9つです。

Q:中国戦史上、銃器が戦場に投入されるようになったのはいつごろからか。

A:世界で最初に銃が発明されたのは元の時代です。それが一般に普及するのは明以降のことです。

Q:なぜ中国の人口は多いのですか。

A:もとから多かったことはたしかですが、それが特に増えたのは、1966年から1976にかけての文化大革命の時代でした。

Q:中国の人名で四文字の名前というのはあるのですか。

A:四文字以上は異民族で、純粋な漢民族は二文字または三文字です。ただし例外として、前漢の文学者・司馬相如(しょうじょ)、唐の即天武后に仕えた女官・上官婉児(えんじ)がいます。

Q:中国で初めて選挙が行われたのはいつですか。

A:中華民国成立後の1912年です。

Q:中国でいちばん古い地図はいつごろできたのですか。また、それは正確なものですか。

A:西周時代(紀元前11世紀〜8世紀)にさかのぼります。その後、西晋時代(265〜316)に裴秀(はいしゅう)という人が作った地図は、かなり正確なものだったと推測されますが、残念ながら現存しません。

Q:「中華」という言葉はいつできたんですか。

A:《中華》として一番古い用例は正史の『三国志』に出てきます。同じ意味で《華夏》という言葉は西周時代にさかのぼります。

Q:長江の深さはどれくらいですか。

A:南京付近で70メートル、うち35メートルは泥だそうです。

Q:中国にはどんな調味料があるのですか。

A:たくさんあります。醤(ジャン)と呼ばれる各種のミソ、カラシ、花椒(サンショ)、酢など。ただし中国の酢は黒色で、日本でいう酢醤油のような味わいがあります。

Q:現在、中国で一番人口の多い都市はどこですか。

A:重慶ということになるでしょう。2000年現在、3000万人です。ただし、中国の市は日本でいう都道府県に相当し、非常に広い領域を持っています。重慶も国の直轄区となって周辺の県を併合し、巨大化しています。

Q:中国から日本へ、船で行くとしたらどれくらいかかるのか。

A:昔の帆船と考えます。寧波から長崎まで、順風なら20時間で着くそうです。上海〜大阪を結ぶ現在運航中の定期船・鑑真号は48時間です。

Q:ハリでツボを押して疲労を取るという技術はどこでできたのか。

A:中国です。古代中国の医術書『黄帝内経』の中に出ているそうです。日本には6世紀に伝わってきました。

Q:風水というものはどこで、誰が、何のために始めたのですか。

A:もちろん中国です。古くからあったようですが、系統的にまとめたのは西晋時代の郭璞(かくはく)といわれています。家相、墓相などの吉凶を判断します。

Q:歴史上、武帝という名のついた皇帝は何人いたのですか。

A:前漢、西晋、南朝の宋・斉・梁・陳、北朝の北周、計7人です。三国時代の魏の曹操も死後武帝の称号を贈られています。

Q:中国はどれくらいの民族が集まってできた国ですか。

A:圧倒的多数を占める漢民族と53の小数民族で構成されています。

Q:「乱」と「変」はどう違うのか。

A:用例から考えると、正統な王朝に対して兵を挙げ敗れたのが乱、正統な王朝側が敗れたのが変ではないでしょうか。

 

W.朝鮮の歴史

Q:朝鮮王朝の支配は、どんな法典に基づいて行われたのですか。

A:明の法律を参考にし、李氏朝鮮時代に作られた「経国大典」というものです。 

Q:朝鮮の中央集権体制が完成される前に刊行された歴史書・地理書にはどのような物があるのか。

A:歴史書は『高麗史』『東国通鑑』、地理書は『東国與地勝覧』があります。

Q:科田制では一人にどれくらいの科田を与えたのですか。

A:第1科150結(結は面積の単位、どれくらいの広さかはわかりません)、以下最低の第18科10結までに分かれていました。

 



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